本当に巻き込んでしまってごめんなさい。
そうね…詳しくは言えないんだけど、先生達にも時々は任務があるのよ。
油断させておいて倒そうと思ってた所に君が来てくれたってわけ。その後、忍者が尾けてきているのがわかったから…学園の手のくの一と知られるわけにはいかなくてね。
追っ手をうまく誘導する必要があったの。ああ、大丈夫よ。他の先生方がなんとかしてくださってるはずだから。
やだ、そんな顔しないで頂戴。邪魔だなんて思ってないわよ。元はといえば私の不覚で……

 

そんな言葉達を、長次はどこかぼんやりとしながら聞いていた。
そしてまた、やはりぼんやりとしながら自室へと戻った。
そうして、小平太のバレーボールの誘いも文次郎の自主トレーニングの誘いも断って床についた。

 

彼女はいない。そう、あの桜色は名も無き虚像だったのだ。
その事実に想像以上の衝撃を受けている自分がいることに、長次は気がついた。
しかしそうであったからといって何が変わるだろう?
例えば彼女がどこかの町娘だったとして…町まで送って行き、そして別れる。そしておそらく余程運が良くない限り、二度と会うことは無い。
それと今の状況、どこが違うというのだろう?そして何故今自分は、これほどまでに彼女にまた会いたいと願うのだろう?
そうだ。会いたいと願っているのならば例え存在しない者であろうと、近くに居る方がいいのではないか。
自分は会えるともしれない娘に会いたいと願い続けるほうを望むのだろうか…。

「ふう………」

考えて、無駄な想像だと長次は思い直した。今日よく眠って、明日になればこのよくわからない動悸も治まるだろう。そう思い、目を閉じる。

 

 …ありがとう
          

           年頃の娘が男の子と二人で歩くのに、緊張したら悪いかしら?

     

       お願い、一緒に学園に向かって…

 

 

「…………」

閉じられた目は、数分もしないうちに開かれてしまう。ああこんなことなら、文次郎の誘いを受ければ良かった、と今更ながらに長次は後悔した。
疲れきってしまえば、何なのかわからないが余計なことを考えなくても済む。
今からでも体を動かそう、と長次は起き上がって物凄い速さで制服に着替えると外へと出た。

 

 

 

とりあえず学園内を走り回っていれば文次郎達と合流するかもしれない、と思い長次は夜の学園を駆け抜ける。
ひやりした風と自分の呼吸音だけの世界は予想以上に頭を冷やしてくれた。
と──何か鋭利な物が木材に突き刺さるあの独特な音が耳に入る。文次郎達が手裏剣の稽古でもしているのだろうか。いやしかし、文次郎や小平太のあの豪快な投げ方とは少し音が違うように感じる。とすると違う誰かが稽古しているのだろう。
そう思って何とはなしに音のする方向へと走ってゆくと…壁が現れた。
その壁が何であるかを認めて、長次はため息をついた。壁の向こうはくの一教室だった。
音はそこから聞こえていた。そしてよく耳をすませば若い女性の声も聞こえる。

「はッ」

カッ

「やッ」

カッ

長次はまた後悔した。間違えるはずも無い、昼間聞いたばかりの声なのだから。ただ思わず…壁に寄り添って聞き入ってしまう。

「そこで隠れているのは誰!?」

長次の心臓が跳ね上がる。別に隠れていたつもりは全く無いのだが、盗み聞きだと言われれば反論はできない。

「壁の向こうの君、今なら見逃してあげるから出てらっしゃい!」

一瞬逃げようかとも考えたがそれでは自分の無実が証明できない、そう考えた長次は大人しく付近に生えていた木を登って壁を越えた。

「あら…どこの鼠かと思えば」

降りてきた長次を見たシナの第一声がそれだった。鼠ということは、侵入者の疑いをかけられていたようだと長次は理解する。

「ごめんなさいね…最近命知らずな覗きが多いからこっちに侵入しようとしてるんじゃないかと思ったのよ。もちろん長次君は覗きなんてしないわよね?」

長次は首の可動範囲をいっぱいまで使ってかくかくと頷いた。

「失礼したわね。それにしても君もああゆうところで意味もなく留まっているといらない疑いをかけられるから注意した方がいいわよ?」
「………すみません」
「べ、別に謝らなくても…。そうそう、こちらこそ今といい昼間といいどうもね。おわびに今度何かおごるわ」

どうもと言われても、長次としては邪魔をした覚えしかない。
なぜ男達に反撃をしなかったのかはわからないが、とにかく自分などいなくても──というよりいない方が良かっただろう。それにしても…

「……先生も鍛錬を…?」

自主トレーニングが好きな生徒というものはいるものだが、先生がそれをしているところというのは見たことがない。
そう思って長次が尋ねると、シナは少しきまりわるそうに答えた。

「あ、これ?え、ええ…まあ…。ほら、私は他の先生方と違ってまだ学園に来たばかりの若輩だから。今日だって…」

シナの顔にうっすらと影がさす。がそれは一瞬のことだった。

「…と。なんだか君相手だと喋りすぎちゃっていけないわね。引き止めて悪かったわ、鍛錬がんばってね。」

そう言われてしまうと、もう壁の向こうに戻るより仕方ない。
長次は会釈をして、もと居た場所へと戻ろうとシナに背を向ける。

「そうだ、君のことだから大丈夫だと思うけど……今日のことは内緒よ?」

長次は振り返ることができず、聞こえないふりをした。

 

 

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その後文次郎達と合流することもでき、体を動かしたおかげかその夜は無事眠ることができた。
ただ…一晩眠れば治るだろうと思っていたあの原因不明の動悸は治まることを知らなかった。それどころか日に日に少しずつひどくなっていっている気さえする。
ここまで来れば、流石の長次も認めざるを得なかった。わざわざ保健室に行くまでもない、図書室で読んだ数々の物語にこれと同じ症状とその名は記してある。
長次は改めてその数々の物語を読み直してみた。
わかる。今ならわかる。不思議にしか思えなかった登場人物の行動、歌に含まれた情念が。もちろん全てではないにしろ。
自覚してしまえば、その動悸はますます煩わしいものとなった。
学内で見かけた時、合同授業の時。
夜は疲れきるまで体を動かし、昼間は一通りのことをこなしつつもどこかぼんやりとしていた。
努めていつも通りであろうと心掛けたが、鼻の良い小平太や意外と鋭い文次郎にはどうも気付かれていたようだ。
そして長次には忍ぶ以外自分がどうしたらいいのか、どうしたいのかがわからなかった。
そう最初は、あの桜色の着物の娘を想う時にだけ何か変調をきたしていたはずだった。そうでなければあの夜あれだけ冷静にシナと話せたはずがない。
それが今は、娘を想う時のみならず……。
無論同一人物なのだから、無理もないようにも思える。しかしそれはシナの中にあの娘の影を見ているのか、それとも。
自分は何を、誰を想っているのか。その答えが長次の中で見つからなかった。

 

 

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「まあまあ…あなた、うかない顔をしてるわねえ。これ、約束の」

数日後、食堂でお茶を一人で飲んでいた長次に鮮やかな三色団子を乗せた皿が差し出された。
見上げてみると、穏やかな微笑みを浮かべた老女がこちらを見ている。
少し前にこの学園へやって来たシナは老人と若者の二つの姿を持つ先生として、早くも学園に馴染んでいた。
が、身長や体格の問題やその他もろもろの男子生徒の希望的観測も含めた結果として、彼女の本当の姿は若者の方であるという考えが上級生の間では一般的であった。
昨夜の発言も考慮に入れると、どうやらそれが正解であるのだろう。と、長次は思う。

「………」
「何か悩み事でもあるのかしらねえ?そう言えばお友達が心配していましたよ?まああなた達みたいな若い者には色々あるもんだと思うけれどねえ…成績が伸びないとか好きな人ができたとか」
「………!!」

お友達、とは小平太と文次郎の会話を聞いたのだろう…と長次が推測しつつお茶を頂いていると最後の一節で思わずそれを噴出す羽目になってしまった。
まさか気付かれたのだろうか?いや多分それはない…とむせながら長次は思おうとする。しかし今の反応で確実に一つばれてしまったことがある。

「あらあら…困らせるつもりはなかったんだけどねえ。ほっほっほ…若い者はいいわね」
「…いい、のですか」

単純に「いい」と評されたことによってか、思わず語気が強くなってしまった。

「おやこれは失礼。確かに忍者を目指すあなたにとっては必ずしもいいものではないかもしれないわねえ」

必ずしもではなく、多分良くないだろうと長次は思う。小平太や文次郎にも心配をかけているのだ。

「…どうすれば…元に戻れますか」
「おかしいことを言いますのね…いいえそれも若さかしら。結論から言えば元に戻ることなんて無理ですよ。気持ちを捨てることですら、あなたには難しいでしょう」
「………」
「ねえ、あなた恋を病気か何かと勘違いしているようだけれど。忍術とは己と相手を深く知っていなければ行えないものです。例え色が忍者の三禁と言えど、もし恋情というものを全く知らない人間が忍者になったとしたらその人はとんだ役立たずでしょうよ。男でも女でもね」

そうなのだろうか。忍者にとって色は敵だと教師は言っていた。それなのに、こんなに知らなければならないのだろうか。
しかしそうだとしても、もう。

「…………十分知りました」

いつになく強情な長次にシナは少し瞼を動かすが、すぐ穏やかに諭すように話し出した。

「そうですか…そこまで言うのでしたらもう何も言いませんよ。しかしその方は…貴方がそこまで想っているような人ではないかもしれませんよ?」

知っている。知っている。彼女はいないのだから。それでも、それなのに。

「……知っています……それでも」

老女の姿をしたシナはそれを聞くとしばし沈黙し誰へとでもなく若い者はいいわねと呟いた。
そこに切なさや感謝、そして侮蔑にも似た羨望があることなど長次は知る由もない。
シナの目は、どこか遠くを見ていた。

 

 

長次が知らないことがある。
娘の姿をしたシナが男に反撃しなかったのは、彼女が男から情報を聞き出してから殺そうと思っていたからである。
無論くの一ならではのやり方で。
だから、そうなる前に男を追い払ってしまった長次は彼が思う以上にシナの任務を邪魔していたのである。
ただシナは、決して長次を恨んだりはしなかった。確かに任務を邪魔されたのは事実である。
しかし、学園に来るまでずっと嘘と裏切りの世界で彼女は生きてきた。
男なんて。そして任務のためとはいえ彼らに媚びなければならない自分。そんな考えが何時の間にか彼女の中に深く根を張っていた。
そんな彼女が、結果はどうあれ純粋な善意だけで自分を助け手を差し伸べてくれた長次を恨むことなどできなかったのである。
あの時娘の姿をした自分が何をしようとしていたか。「それでも」と話したあの幼すぎる少年に、それはせめてどうか何時までも秘密に。
そう強く彼女は願った。

 

 

 

その後、桜色の着物を着たその美しい娘の姿を見た者はいない。
それは任務の都合なのか、はたまた彼女の気まぐれか。
それとも、一人の少年が想ったその姿を、例えば嘘や血で穢したくないと彼女が思うからか。

 

 

桜の季節が来れば、長次が懐かしそうに切なそうにその薄紅を愛でている。


 

 

 

 

 

 

 


あとがき

なんだろうこの恥ずかしさは///中途半端に終わるのは確信犯ですが限度というものがあるような。
実は「忍ぶれど」とリンクしています。あれを書いた時に相手を二通り考えたうちの一つがこちらで「変装中のシナ先生」というものでした。
もう一つがアブノーマルで相手は仙蔵だったりします。ちなみに文→長→仙(笑)そのためこっちに合わせて「あいつ」表記になってしまっているのですが。