夕暮れの子供

 

 

 

 

 

 

 

少し昔の、小さな出来事。

 



 

 

「かあちゃん、かあちゃん!」
「いい子だから言う事を聞きなさい!」


ある日の夕方。小さな子供が母親の着物を引っ張って駄々をこねている。町ではさして珍しい光景でもない。

ただ珍しかったのは、その子供が乱太郎という子供であったということである。


「なんで!?みんな持ってるのに…どうして僕には買ってくれないの!」
「乱太郎…わかっておくれ。今はどうしてもお金を貯めないといけないんだよ」
「学校なんか行かなくてもいいよっ…」
「乱太郎、いつからそんな子になったんだい」

母親の方はもとより、子供の方の声までもどこか悲痛さがあった。
それはこの双方の言い分が共に相手を思いやる故だとは、幼い子供にも大人である母親も気付くことはできない。

「乱太郎、お願いだから。ほら、今晩はおいしい物作ってあげるから、ね?」

母親の言葉にやはり、自分の望みが理解されなかったことを知った子供は急に掴んでいた母親の着物を離して走りだした。

「乱太郎っ」

母親の呼び声もむなしく、あっという間に子供は人込みの中に消えていった。

 

 

 

走って、走って。
時折込み上げてくる涙で視界を曇らせ、行き交う人々とぶつかりながら子供は走る。


自分の家が少なからず貧乏であることは幼いながらにわかっていたつもりだった。前々からお金を貯めているのは自分が学校という所に行くためだということも知っていた。だから自分は絶対に我が儘など言わず、いい子でいようと思っていた。
ただ…何かが許せなかった。
乱太郎の友達は、どの子も大体似たり寄ったりの農家の子。
誰も人の家のことなどについてどうこう言ったりはしない。というより、そんなことには興味がない。

だから、偶然盗み聞いた大人の会話。貧乏が侮蔑の対象になるなんて乱太郎は知らなかった。

そしてその小さな頭で考えた結果、あれさえあれば、あれを持っていれば、馬鹿にされることはないのだと思ったのだ。そう思ったら無性にそれが欲しくなって、気付けば母親に駄々をこねていたのである。

無我夢中で走っていると、角を曲がったところでまた人にぶつかった。

「うわ」
「あ、ごめんなさ…」

涙声で言ってから見れば、ぶつかった相手は自分と同い年くらいの少年だった。涙で目の前が曇っていて相手の顔まではよく見えなかったが。

「…お前、なんで泣いてんの?」
「あ…」

泣いている顔を同年代の子供にはなんとなく見せたくなくて、乱太郎はうつむいた。それに、何故と聞かれてもうまく言葉にできなかった。

「…………」

周りの大人達は二人を避けて動いてゆく。その見知らぬ子供は、黙って目の前に立っていた。乱太郎もそれ以上走る気にもなれずただ立ったままべそをかいていたが、そうしているうちにしだいに落ち着いてきた。

「あの…ごめん…」
「いや、別にいいけど。危ないだろ」

そう言ってやっと落ち着いてから周りを見渡してみると、そこは町の中でも知らない通りだった。
走っているうちに、町の外れの方まで来てしまったらしい。
───そうだ、母ちゃんはどうしているだろう。きっと怒られるに違いない。どうやって元の場所に戻ろう。もう二度と会えなかったらどうしよう。
そんなことを考えていると、引っ込んだはずの涙が不安でまた溢れ出しそうになる。

「……っ…」
「あ……ちょ…」
「どうしよう…ここどこだかわからないよ…母ちゃん…」
「…………」

 

とぎれとぎれに話したその声が…届いた。

 

「どこから来たんだ?」
「…えっ?」
「だからどの辺から来たんだって。店の名前とか…なんか覚えてないのかよ?」
「えっと…えっと…」

乱太郎はさっきまでいた周辺の店を必死に思い出し、伝えた。

「えっと…となると…あそこか!付いて来いよ」
「わっ!?」

そう言うと、その子供は突然乱太郎の手を引いて走り出した。

「道…わかるの?」
「任せとけって!」

 

手を引かれ走りながら、乱太郎にはこの見知らぬ子供が自分の知る誰よりも強く頼れる存在のように思えた。

 

夕闇に染まる町の中。
家路を急ぐたくさんの人をかきわけながら走って、走って。

 

そして──人ごみの中必死に我が子の名前を呼び続ける母親を見つけたのは、夕日が消えかかる頃だった。

 

「母ちゃん!!」
「乱太郎…!」

乱太郎は一目散に母親の足元へと飛び込んだ。母親はまるで全ての母親がそうするものと定められているかのように子供を抱きしめた。

「母ちゃん…」

が、母親はすぐに表情を一変させる。

「こおおの馬鹿ちんが!一体どこまで行ってたんだい!?心配したんだからねっ!」
「ご、ごめんなさーい…。あ…そ、そうだ…!」

予想通りの怒声を受けながら、乱太郎はふとするべきことがあるのに気がついた。

「母ちゃん、あのね…」

あの子にお礼を言わなくちゃ。そういえば、名前も聞いてない。
そう思って乱太郎は振り向いた。

「…あれ?」

 

──そこには──穏やかに流れる町の景色があっただけだった。

 

「あれ?あれ?」

左右も、人ごみの中までくまなく見渡す。しかし、どこにも見当たらない。

「ちょっと乱太郎!どこに行くんだい!」
「ごめん!ちょっとだけ!」

母親の制止をまたも振り切り、乱太郎は辺りの店の中や路地を探した。

 

 

 

それでも──やはり、どこにもあの少年の姿はなかった。

 

 

 

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夏休みの終わり頃。
バイトを終えたきり丸と、その手伝いに付き合った乱太郎が先生の家に向かっていた。

 

 

「ねえ…きりちゃん」
「ん?」
「今急に、思い出したことがあるんだ…」




 

 

 

 

 


あとがき

スランプだったので前に書きかけて終わってたものを加筆しました。
実は、「夏休み」とつながっています。
どうやらきり乱では「手をつないで走る」っていうのが自分的に萌え要素のようですね。